旧ユーゴスラビア共和国は第二次世界大戦後に、チトー氏という強力なカリスマ的リーダーが民族(セルビア、クロアチア、スロベニア、モンテネグロ、マケドニア、アルバニア、ムスリム)を超えて建国した国でした。しかし、チトー氏の死後、それぞれの民族の不満が噴出して、民族間の対立が、七つの国家の独立を招きました。その間に、悲惨な紛争が繰り返されましたが、未だコソボは独立国家として完全には認められてはいません。火種が燻り続けています。
先日、NHKでコソボ紛争のドキュメント番組がありました。コソボではセルビア人、アルバニア人が共存して生活していましたが、紛争が勃発した途端、今まで、親しく長期間に渡り隣人付き合いしていた人達が、民族間で虐殺を繰り返したり、その為、互いの民族が疑心暗鬼に陥り、信頼関係を失って行きました。
一般民衆は戦闘をしていなくとも、互いの民族の戦闘組織が戦い、そこに彼らの家族、親族が参加し、その結果、戦死したり、虐殺される者も出てくるようになって、憎悪の関係になるのにさほどの時間はかからなかったのです。
このような民族を主体としたグルーピングによる統治、そして対立はどうして生まれるのでしょうか。だいたいは、庶民生活が苦しくなると、その民族の指導者達がその原因を多民族のせいとして糾弾します。そして、対立する民族を亡き者にして、権力を握ろうとするのです。
私がいつも訴えているのは、真実は、民族という括りで悪行を為している訳では決してありません。どの民族にも良い行いをするものも悪いことをするものも同じ位の割合存在するのです。ですから、ある民族を排除したり、根絶やしにすれば、物事が解決する訳では決してありません。それなのに、リーダー達はまるで特定の民族を滅ぼすことが解決策のように叫び、敵味方どちらのリーダーもそのような考えを前面に出しますので、結局は殺し合いとなってしまうのです。そして、誰かが殺されれば、その身内、知人に大きな憎悪が生まれ、それが引き金となってさらなる殺し合いに拡がって行くのです。
真実は、本当の恨みの対象とすべきは、無差別に特定の民族だとするのでは無く、残虐な行為をするその個別な人間であるべきなのです。そして、民族とは関係無く、そのような悪行を行う人間こそ、排除するように働かないといけないのです。
このことに気付くことが出来れば、例え民族が違っても、それまで親密に付き合っていた家族、人間同士で憎み合い、殺し合うことなど必要ないのです。
長い歴史の中で、このような愚かな人間の行為は、世界のあちこちで行われて来たのです。もう我々庶民もいい加減気が付かないといけません。人種や民族や国籍や宗教などで、大括りにして対立することほど愚かなことはありません。そんな間違った認識があるから、無実の人々や善良な人々が迫害されてしまうのです。
本当の巨悪はそのような間違いを正義として喧伝し、争いを起こすことによって、自分の欲望を達成しようとしているのです。彼らは人の命など、どうでもいいのです。
我々庶民は、そのようなことに決して踊らされることをしてはいけません。我々は決して弱い庶民同士で殺し合いをしてはいけないのです。