文部科学省の発表によりますと、2024年度に全国の小中高校などで起きた「いじめ」の認知件数がおよそ77万件にのぼり、過去最高となったようです。水面下で認知されていないものも多くあると考えられますので、その数は膨大であると言えるでしょう。学校での暴力行為の件数も13万件弱と前年から大きく増加しています。生徒に重大な被害を及ぼした重大事案も過去最多の1405件となりました。また、小中学校の不登校の生徒も毎年増加していて、35万件を超えているそうです。いじめが不登校の原因になっているケースもありますが、学業不振などと言ったケースも見られています。
このような事態でも、文科省や教育委員会などは、極めて憂慮すべき状況と認めてはいても、何ら抜本的な対策を打てずにいます。そろそろ、今の教育システムが根本的に誤っていることに気付いてもいいのではと思います。
私がこのブログでいつも述べていますように、子供達の評価基準が受験システムと密接に連関していて、その一連の流れに乗れない、乗り遅れている子供達に対して、将来の希望になるような道を示せていないことが大きな問題であると思っています。また、本来、これから長い人生を送らなければならない子供達に、どのようにして幸福な人生を送れるようにするのかという本当に伝え、教えなくてならないことが疎かにされていて、大事な自分の将来にどう道をつけるか、ひととのコミュニケーションをどうとって行くかと言ったような、基本的な人生リテラシーを教育する機会もほとんどありません。
今の教育は、綺麗事をベースにしていて、例えば、人間は平等でなければならないと、運動会での徒競走で手を取り合ってゴールするとか言うような、本質論からかけ離れた具体策が散見されます。社会では、様々な競争が繰り広げられている現実を無視しているとしか思えません。また、真面な親や先生は聖人であることが普通であるような理想論から、いろいろなルール、制度が作られていますが、ほとんどの人間は完全な人はいないという現実を無視しています。親であれ先生であれ、人間なのです。嘘をつくこともあれば、弱い面もあるのが普通です。社会に存在する人間の大半は、そのような弱い人間であるということをベースにして、いろいろな事を考えていくべきなのです。
新ハルモニア主義では、極一部の人間を除いて、聖人のような人間はいないと考えています。弱い人間は、自己中心的に行動したり、他人に見られていなければ大なり小なり悪事に手を染めてしまう誘惑に負けそうになるものです。人間の基準を聖人君主におくのではなく、弱い人間において考えると、育て方、ルールや制度の作り方も現実的で効果的なものを作ることが出来ると思います。
学校にいる間は(建前ではありますが)、社会は平等で、人間は聖人君主であるべきだと教えられて来たのに、社会に出ると不平等や汚い人間模様に晒され、そこで挫折し、転落したり、逃避したりするひとも多く存在する事実を忘れてはいけません。もっと現実の社会を知らせ、そこで強く生きて行ける人間を育てていくべきなのです。そうであれば、学校生活における過ごし方も今よりもっと強く生きて行くようになっていくのだと思います。また、本当の平等とは、みんなが将来の目標や幸せを追い求めることに対して、等しくチャンスを持てることが重要なのです。競争という面でも、ある面では、優れていても、別の面では他の人が優れていると言ったように、人の長所、短所を認識し、ひとりひとりの長所を活かした社会貢献の道を見つけ出せるようにすべきで、そのことに少しでも早く気付くように、学校生活は成り立っていなければならないのです。
社会には、様々な機能が必要であり、それを支えるひとが必ず必要であり、受験エリートだけが尊重されるような間違った社会は是正されるべきなのです。学校の勉強が出来る人だけが認められるのではなく、例えそれが不得意であっても、人間は何か得意なものを持っているのです。そのことを認識し、自分の強みに気付くことが出来れば、人間は強く生きることが出来ます。そうなれば、今より多くの人達が、遣り甲斐のある人生を歩むことが出来るのです。家庭での子育てと学校教育では、このことを中心に、ひとを育てていくことが最も大切なことなのです。