世界では、国と国との争いが至るところで起こっています。国の中での内紛もあちこちで見られます。
ほとんどが、突き詰めると一部の人間達の権力争いであると言えるかもしれません。そういう争いで、権力者達が持ち出すのは愛国心という言葉です。権力者は国民に対して、国を守ることは国民ひとりひとりの愛国心から為されるのだと訴えます。そして、多くの若い国民が愛国心の名の下で、戦地に送られ、命を散らしたり、負傷したりして、人生を狂わされることになるのです。
運よく生きて祖国に戻ったり、戦争が終結して命をつないだ多くの人達が感じることになるのは、本当に戦争をする必要があったのかということです。個人的に何の恨みも無い者同士で殺し合わないといけない状況、たまたまどこの国に生まれたかということで敵味方となる状況、権力者から国の為に敵を殺せと言われただけで、どうして殺し合わなければならなかったと言うことに大いなる疑問を持ったのです。
例えば、米国はベトナム戦争後も、中東地域の紛争に何度も介入して来ました。そして、圧倒的な軍事力で、敵を制圧し、その国の治安維持の名の下で、軍事的な統治を進めていました。いろいろな事情で、撤退することもありましたが、例えばアフガニスタンのように軍隊が撤退した後、反体制勢力のタリバンが政権を奪取したようなケースもありました。また傀儡政権を樹立し、親米国家建設を画策したことも度々ありました。イランのように、狙いとは違い、結局、最後に反米政府が出来上がったこともありました。歴史的には、英国、米国、ロシアのような大国が自国の利益の為に、また覇権を拡大する為に、世界各地に軍隊を派遣し、現地を戦乱に落としていることの要因となっているようです。
大きな権力が為して来たことは、国民や現地の人々の生活より、自国の利益(国民全体の為と言うより一部の権力サイドの人達の為の)を優先して来たことでした。それらの国々の民衆の実状に接したことで、現地で勤務していた兵隊の中には、何の為に、殺し合い、破壊活動をしなければならなかったと疑問を持つ人間も少なからずいたと思います。第二次世界大戦の頃は、情報が限られていたことで、敵はすべて悪だという刷り込みを信じさせるのは簡単でしたが、現代では違います。世界にある多くの様々な情報を集め、何が信じるべきことかを冷静に判断すれば、何の為に戦っているのかが見えて来ると思います。
多くの情報を重ね合わせて考えていきますと、重要なことが分かって来ます。多くの人間は自分の生まれ育った地方の環境やそこに住む人々、そして文化や伝統に愛着を持つのは今も昔も変わりありません。それが本来の自分の国を愛するということだと思います。しかし、古来から権力者達はその人民の気持ちを愛国心と言う言葉にして、敵に対する団結を促して来ました。しかし、戦争などの紛争の内幕を見て来ますと、彼らが本当に守ろうとしたいのは、民衆が求めている国に対する心とは違い、権力者の権力や富を維持する為に、今の体制を守りたいと言うことなのです。権力者にとって、愛国心とは、自分が都合よい体制を築いているその国に対する愛着なのであって、人民のことなど二の次なのです。
ですから、表面上は愛すべきものとしている若者の命を簡単に危険に晒すこと、つまり大した痛みも感じず、若者達を非常に危険な戦地に送り込みます。さらに、権力者自身は愛すべき国と運命を共にすると言いながら、局面が悪くなると、逃亡したり、亡命したりして、国民に愛国心を促していた当事者がその愛すべき国を離れてしまうのです。。
我々は、権力者の使う愛国心という言葉に惑わされてはいけません。権力者の常套手段は、自分の失政で国民の生活が苦しくなっていたとしても、それを外敵のせいにし、国の為に外敵を倒そうと、軍事力を使おうとするのです。戦争になれば、より国民を縛ることが出来ますし、国民の不満を外に向けさせられるのです。そのときに利用するのが、愛国心と言う言葉なのです。
我々は、本当に愛するものを守る為に命をかけることも出来ると思いますが、権力者達の思惑の為に犠牲にされたくはありません。そのことを常に念頭において、権力者の言葉を聞かないといけません。多くの人民が権力者に踊らされることが無くなれば、世界の多くの紛争が止まると思います。