最近のニュース報道を見ていますと、日本のあちこちで殺人事件が起きたことを多数報じています。夫婦の金銭問題がらみで夫が妻を刺殺した事件、ネットゲームで知り合った若者同士が喧嘩して男性が高校生の女性を刺殺した事件、20代男性が通りがかった見ず知らずの高校生の女性を刺殺した事件、保育士が殺害されて海岸で発見された事件、行方不明の19歳少女が車から遺体で発見された事件など、ちよっと思いつく事件でもこれほどあります。何故にこれほど簡単に人を殺めようとするのか驚くばかりです。
近年、コンピューター、スマホゲームに多くの人が没頭し、現実と仮想空間との区別が曖昧になって、殺人への障壁が下がって来たというようなことも聞いたことがありますが、それだけではないような気がします。
科学技術とりわけ情報関連の技術が発達し、パソコンやスマホであらゆる情報が簡単に即座に入手出来るようになって、若い内からそのような世界の中で、自分は何でも知っていると言うような錯覚に陥りやすい状況がある一方、溢れる情報から何が正しいか、何が危険かを判断するだけの知識も経験も少ないままに大きくなって、つまり未熟であることを自覚しないままで成長していることも関係あるかもしれません。その結果、自分の思うままには物事は進まないことに、その原因を他人や社会にあるとして、一時の感情を爆発させて、簡単に人を殺すことにまで突っ走ってしまうのかもしれません。
米国では、少年、少女が銃を乱射して、家族や先生、生徒を射殺する事件が起きていますが、まさしく、未熟な人間が危険な道具を入手出来れば、このような事件が起きることと日本の事件にも共通点があるような気がします。
日本の学校でも命の尊さを教えていると思いますが、そのことを心底理解出来るような教育内容になっているのでしょうか。表面的に人を殺してはいけないと説いても簡単には理解出来ない子供もいると思います。ましてや、世界のあちこちで戦争や紛争が起こっていて、多くの人が死亡したニュースが毎日のように流されているのに対して、大人、ましてや国のリーダー達がその殺人を推進していることを見れば、人を殺すことがどうして悪いのかと考える子供も出て来ると思います。
このような世界に生きることは非常に難しいかもしれませんが、そうであるから、よけいにきちんとした認識を持てるようにならないといけないと思います。
人間はそれぞれいろいろな考えを持っています。そして、それをお互い認め合い、だからこそ自分の考えも認められるということで、人間同士のコミュニケーションが成立するのです。もちろん、その考えをぶつけ合い議論することも大切です。しかし、何でもかんでもどちらかの考え方が絶対に正しいというような結論を求めてはいけません。そこがポイントです。誰かの考えを絶対正しいとするのは非常に無理があります。もちろん、議論の結果、どちらかの考えが正しいことが明らかになり、それをお互いが認めることが出来れば、それがいいのですが、かなりの問題は簡単に黒白がはっきりつかないことも多いと思います。それなのに、自分の考えを押し通そうとする為には、暴力に頼ることになります。究極は、相手を殺して、この世から消滅させようとすることになってしまいます。このようなことが国レベルになると戦争と言うことになるのです。
いつも述べていますように、戦争、暴力ほど理不尽で不条理なものはありません。幸せを追求しようと生きている人間の将来を無惨に断ってしまうのが殺人なのです。自分が被害者になればどれだけ悲惨なのか想像してください。
小さな子供の頃から、ずっといろいろな考えをそれぞれの人が持っています。そして自分の考えも認めてもらいたいなら、ひとの考えも尊重し、どうしたら協調出来るかを考えることを常に求めることを、日々、教えていくことが大切なのです。自分の考えが理解してもらえないことや、敵対しているような相手を消し去りたいと思うこともあるかもしれませんが、そのような一時の感情で行動を起こさないだけの冷静さ、成熟さを持たなければなりません。未熟であれば、一時の感情で無謀な行動に走る訳ですが、人間はきちんと教育を受け、社会経験を積み重ねていけば、そのような感情が刹那的に湧いて来たとしても、すぐに我に返り、秩序的な行動をとれるものです。そういう意味で、家庭と学校での今の教育を変えていかなければならないのです。受験を目的とした知識を詰め込むことが主流の今の教育がどれだけ多くの問題を生み出しているかを教育を司る親も、文科省も教育委員会も理解しないといけないのです。