昨年、高知県立美術館、徳島県立近代美術館の所蔵品が相次いで、偽物であると判明しました。今年に入り、岡山県のギャラリーからも所有する作品が贋作でないかという情報が寄せられています。これは希代の贋作師、ヴォルフガング・ベルトラッキによるものであると見られています。ベルトラッキはドイツの画家であり、元美術贋作師でありました。約50人の芸術家の贋作を数百点作成し、1億ドル以上の利益を得ていたと言われています。2011年に、裁判により、懲役6年の実刑判決を受け、刑務所に収監され、約3年間の服役後、2015年に釈放され、その後は自分自身の名前で、絵画を発表しています。
彼の贋作は明らかになっているものが89点、その中の32点が今も不明だということで、日本での発覚したものも、不明のものか、または新たな贋作であったのかもしれません。
彼の贋作は、単なるオリジナルの完全なるコピーでは無く、写真などが残っていない作品を本人は、独自の想像力と巧みな技術で、新たな作品を構築していたもので、つまり、元の作者の画風やタッチなどは似せてはいるが、絵そのものは元のタイトルから啓発されたベルトラッキの創作であり、使用された画材や素材も当時使用されたものを蚤の市や骨董品市場で調達し、さらに裏面のラベルや釘、額縁も再現し、科学分析にも耐える作品に仕上げていました。その為、美術の専門家や研究者ですら見破ることが出来なかったのでした。しかし、ひとつの作品の科学鑑定で、当時使用していなかった顔料が検出され、そこから、追加調査によって、複数の作品が同一人物によるものであるとの可能性が浮上し、結局ベルトラッキに捜査の手が伸びて行ったのでした。
この事件は、美術界に多大な衝撃を与えました。彼は自分は贋作者では無く、創作者であったと言っています、何故なら、多くの専門家やコレクター、愛好家が自分の作品を褒めたたえていたからだと、語っています。確かに、彼の描いた絵を彼自身の名前で、元の作者にインスパイアされて作ったものであるとしていたなら、どうなっていたのでしょうか。専門家達は高い評価を与えていたのでしょうか。
本物と偽物とはどう違うのでしょうか。未だに、贋作と疑いのある作品の所有者でも、自分は本物だと信じていると語るものが多くいるようです。スペインの名だたる美術館でも、今回の日本の美術館でも、贋作と指摘されるまで、一般に対して、本物の作品だと長期間に渡り公開して来ました。専門家である美術館の学芸員やそれを鑑賞した人達も、みんな本物で素晴らしいとしていたのです。贋作と簡単に認めないのは、そのことで、いろいろな面で信用が失墜するからとも言われています。
うがった見方をすれば、偽物でも、素晴らしい作品は素晴らしいと言えるのです。作品に対する評価とは、本来は人間個人の感性に委ねられています。ベルトラッキの主張するように、作者の名前を騙ったことを除けば、素晴らしいものは素晴らしいのです。
私のような凡夫であれば、超一流の画家と芸大の学生の違いをも本当に区別出来るのでしょうか。否、今回の事件は科学捜査における一点の綻びが無ければ、専門家ですらその違いに気付かなかったのです。
例えば、テレビの格付けチェックで、美術品、音楽、舞踊、食などの一流と三流を比べて判定する番組がありますが、ほとんどの人が多くの間違いの回答をしています。例えば、ボトル何百万円と三千円のワインさえ間違えることなど多々あります。
このようなことを見ていますと、我々は、自分自身の判断などたかが知れていて、結局、ブランドや価格や作者などで、作品の優劣を決めているだけなのです。そうであれば、本当に楽しむ為には、そのような肩書に惑わされること無く、自分が良いと思ったものにこそ、価値があるのだと思うことが重要であると肝に銘じるべきかと思いました。それにより、大切なお金を無駄に使うことが無くなり、自分自身にとり本当に価値あるものに有効にお金を使うことが出来るのだと確信しました。
もちろん、投資として作品を利用する人達にとっては、いかに専門家が評価するのか、そしてその真偽は非常に重要だと思いますが、本当に作品そのものを自分自身の感性で楽しむのであれば、専門家や他の人達の評価など気にする必要がないのだと思います。
それは、人間そのものの評価にも通じるものだと思います。ひとがあれこれ言うことは参考意見として聞き置いて、あまりそのことで先入観を持たずに、生身のひとと接することが大切なのだと思います。現在は、ネット社会で、SNSなどでの評価、誹謗中傷などが渦巻いていますが、そんなものに簡単に惑わされてはいけないことをこのような事件が教えてくれているような気がします。